2009年03月02日
日本史勉強会(その7)
西暦1550年ころから1600年の関が原の戦いまでの50年間は、
日本史上、もっとも激動の時代でした。
今川義元、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康
といった戦国武将が覇権を争そって熾烈をきわめました。滋賀県
も覇権の舞台となり、たびたび歴史上に登場してきます。
小説家もこの時代をテーマにして多くの小説を書いており、私も
この時代の歴史小説はずいぶんと読んだ覚えがあります。
そこで質問
織田信長が殺された「本能寺の変」は天正10年(1582年)
6月1日(正確には6月2日未明)に起こりましたが、この日、
京都の本能寺界隈はは闇夜であった?それとも月の明るい夜だったか。
あなたは、わかりますか?
明智光秀が、部下の大群を率いて、中国の毛利攻めに出かけたところが、
織田信長を今やらないと、自分が殺されると光秀は危機感をいだいて、
「敵は本能寺にあり」と、急遽方向転換して本能寺を襲った・・・・
ことまでは知っていても、闇夜かどうかといわれても・・・・?
実は太陰暦を知らないひとにはまったくわからないことですが、
太陰暦を知っている人には、こんなに人を馬鹿にした質問はありません。
答えは「闇夜」となります。かがり火があったかもしれないが、少なくとも
月は出ていない。
なぜか? 一日だからです。
太陰暦では、月の満ち欠けに合わせた暦です。だから、一日、二日は「月
がほとんど欠けて」見えない。3日目に初めて「少し見える」ようになる。
この状態を「三日月」という。そして、十五日目には「月」は必ず満ちる、
すなわち「満月」となる。十五夜である。
だから、昔のカレンダーでは月の三日は必ず三日月であり、十五日は満月
となる。
知っている人には当たり前のことだが、知らない人には「そうだったのか!」
と思うことです。
「逆説の日本史(井沢元彦著)」を読むと、いろいろと勉強になります。
日本史上、もっとも激動の時代でした。
今川義元、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康
といった戦国武将が覇権を争そって熾烈をきわめました。滋賀県
も覇権の舞台となり、たびたび歴史上に登場してきます。
小説家もこの時代をテーマにして多くの小説を書いており、私も
この時代の歴史小説はずいぶんと読んだ覚えがあります。
そこで質問

織田信長が殺された「本能寺の変」は天正10年(1582年)
6月1日(正確には6月2日未明)に起こりましたが、この日、
京都の本能寺界隈はは闇夜であった?それとも月の明るい夜だったか。

あなたは、わかりますか?
明智光秀が、部下の大群を率いて、中国の毛利攻めに出かけたところが、
織田信長を今やらないと、自分が殺されると光秀は危機感をいだいて、
「敵は本能寺にあり」と、急遽方向転換して本能寺を襲った・・・・
ことまでは知っていても、闇夜かどうかといわれても・・・・?
実は太陰暦を知らないひとにはまったくわからないことですが、
太陰暦を知っている人には、こんなに人を馬鹿にした質問はありません。
答えは「闇夜」となります。かがり火があったかもしれないが、少なくとも
月は出ていない。
なぜか? 一日だからです。

太陰暦では、月の満ち欠けに合わせた暦です。だから、一日、二日は「月
がほとんど欠けて」見えない。3日目に初めて「少し見える」ようになる。
この状態を「三日月」という。そして、十五日目には「月」は必ず満ちる、
すなわち「満月」となる。十五夜である。
だから、昔のカレンダーでは月の三日は必ず三日月であり、十五日は満月
となる。
知っている人には当たり前のことだが、知らない人には「そうだったのか!」
と思うことです。
「逆説の日本史(井沢元彦著)」を読むと、いろいろと勉強になります。


Posted by さわちゃん at 22:55│Comments(1)
│さわちゃん
この記事へのコメント
本能寺の変の真相については「本能寺の変 四二七年目の真実」明智憲三郎著(プレジデント社)で決着がついたと思っています。滋賀県には縁の深い話と思いますので研究してみてはいかがでしょうか。
Posted by 大統領 at 2009年04月22日 21:45
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